伊藤トモの俗・実験室

頑張ってる左手

『夜に問われれば』

  「いらっしゃいませ」いつも通りの低くも明るいマスターの声色が出迎えてくれる。

会社から急行で25分、自宅のあるベッドタウンのそれなりに栄えた駅前にこのバー「Athenys」は店を構えている。夜8時、今日は金曜日だが、今週はいつもより仕事が早めに片付いたので、ゆっくり飲むことにした。

 オレンジがかった照明の中でゆったりとしたジャズが流れている。

 「どうぞ」欅の木目のハッキリしたカウンターにジントニックが置かれる、

 「あちらのお客様からです。」俺の目の前にカルーアミルクと紙が置かれる。
マスターがこの言葉を口にするのは、今夜これが始めてだ。バーの中がややピリつく。

 「来たか。」マスターに渡された紙をめくる。
 "問1. 以下のひし形の面積を求めなさい。"
そう、ここは小洒落たバー。この場所に教養の無い人間は不要である。そこで、客たちは互いに小テストを贈りつけあい、小テストが出来なければ退店させられる。


「は、何これ?こんなん覚えてる訳ねえじゃん。」
俺の後ろで、同じ小テストを渡された客が文句を言う。見ない顔だ、恐らく初めてなのだろう。かわいそうに。
「すみません、お帰りください。」マスターが物腰柔らかに、しかしはっきりと客に述べる。
「は?おかしいだろ、こっちは酒飲みにきてん――」
パンッッッ
マスターが客を引っ叩いた。客は唖然としている。
「すみません、お帰りください。」
そう、ここは小洒落たバー。この場所に教養の無い人間は不要である。


かくいう俺はサクッと問題を解き、別の小テストとモスコミュールとを贈った。
もちろん、この程度の問題でつまづくことはないが、酒が入ってくると思考が鈍るのでケアレスミスが出やすいし、夜が深まるにつれてどんどん問題が難しくなっていく。今日は馴染みの顔も多いし、最後まで居られないかもしれない。

そんなことを考えていたら、早速新しい小テストとマティーニが贈られてきた。
"問1. 行列 \begin{equation} A = \begin{pmatrix}14&49 \\ 8&14 \end{pmatrix}\end{equation}行列式の値を求めなさい。"
なるほど、今夜は少しペースが早いかもしれない。しかし、余裕だ。俺だってもうこのバーに通い始めて数年。線形代数は得意になった。

ちゃちゃっと解き、また小テストとニコラシカを贈る。
「うーん……」店の端に座っている男が悩む。
彼もよく見る顔で、「社会」の日には最後まで残っているらしいが、数学は些か苦手なようだ。僕の贈った微分方程式に悩んでいる。

「すみません。」マスターに声を掛けられた。
「なんですか?」
「ここなんですが……」マスターは問3を指差す。行列Aの固有値を求める問題だ。
「ここは、この固有方程式を解いて……あっ」
そう、ここは小洒落たバー。この場所に教養の無い人間は不要である。


11月の夜風は、いつもより冷たかった。


お題「小テスト」「ひし形」「カクテル」